19世紀も終わりにかかる頃、デビッドソン大の男子アスレチックチームの面々が、当時の応援歌(ファイトソング:“Run, Run, Run / Pink and Blue / Davidson”)や、スクールカラーのイメージに不満を持ち始めます。
そこで、1895年の12月に選挙を行ない、学生らは、スクールカラーをレッドとブラックに変更することに投票し、現在に至っています。
壁のアーチに銘打たれた通り、ここがジョン・ベルクアリーナの入り口です。
名前は、この大学を1943年に卒業した、ジョン・ベルク氏に由来しています。
ガイドなどで調べたところ、選手としての華々しい記録はないものの、「チームでリーダーシップを発揮」とされ、シャーロット市の市長、一族が拓いたベルクという会社の経営者を歴任し、そして長年、デビッドソン大を経済的に支えてきたようです。
後述の永久欠番に選ばれた選手と並んで、バスケットボールの Athletics Hall of Fame に認定されています。
通算2483得点は、大学の歴代2位。
在学4年間のうち、1年目は逃してしまったものの、1試合あたりの得点力は全米ランクで、2年目は17位、3年目は8位、4年目は6位。一方で、2057本のシュート数(試投数)は大学歴代1位、2位のカリー選手(1866)を離しての記録を持った選手でもあります。
1995年には、この大学の Athletics Hall of Fame に選ばれました。
また、1979年にはサザンカンファレンスの Athletics of the Year と Helms Foundation All-America チームにも選ばれ、その後、NBAドラフトで3巡目指名を受けました。