レプリソーム旅行記 Vol.21 デビッドソン大学

入ると…
入ると、最初にひらけるのは画像のような風景。
あまり、アメリカのカレッジバスケのアリーナとは思えない、広々としたくつろげるロビー、しかも床は絨毯張りです。
そして、この辺りだけでも色々と設備があり、さらに奥へと続く通路が何本か見えますので、それぞれ見て行きます。

  
セレモニーなどがあった際に、挨拶やスピーチをするための台のようです。
大学名、チーム名、マスコットのロゴが入っています。
そしてこの台の背後には、筋トレをするトレーニングジムがあります。

ニスベット・ロビー
建物からアリーナまで、色々な物に逐一名前がつけられていますが、このロビーにもニスベット・ロビー(Nisbet Lobby)と名前がついています。
画像中央、奥に明るく見えるのは、ガラス張りの入り口。
ここへは、この場所から入りました。

  
赤と黒
ロビー周辺を見渡すと、やはり赤と黒。
ここで、チームカラーについてご紹介。

実のところ、大学初期のスクールカラーはレッドとブラックではなく、ピンクとライトブルーでした。
理由は明確にされていませんが、大学の代表が「これらは、2つの学生会 Philanthropic と Eumanean へ授けられた物である」として、端を発しています。

19世紀も終わりにかかる頃、デビッドソン大の男子アスレチックチームの面々が、当時の応援歌(ファイトソング:“Run, Run, Run / Pink and Blue / Davidson”)や、スクールカラーのイメージに不満を持ち始めます。
そこで、1895年の12月に選挙を行ない、学生らは、スクールカラーをレッドとブラックに変更することに投票し、現在に至っています。

それでも、卒業式などの両学生会に共通する大学の式典においては、今でも両学生会の代表たちは、当時のピンクとブルーの肩帯を身に付けて出席するとのことで、昔ながらの習慣も保持しているそうです。

明確な理由が不明なのは残念でしたが、偶然にも、同じ南部州の大学で、東へ200kmほどしか離れていない、ノースカロライナ州立大学も、当初はスクールカラーがピンクとブルーで、のちにレッドとブラックとなったのは興味深い共通点です。

プール
ロビーから通路を進むと、まず現れたのはプールです。
ロゴの入った記録ボード、そして一定間隔を示すポールにはロゴの入った、赤と黒のフラッグが無数に張られています。

更に奥へ
プールの奥へ更に進むと、こんな場所に出ました。
DAVIDSON の文字のエンブレムが飾られた壁のスペース。シェリル・ウィリアムソンセンター for ダンスと銘打たれています。

フローリング
実はこの壁は、フローリングでできています。
かつては、バスケットボールのコートもダンスホールを流用していたという過去がありました。
何となく親しみをおぼえます。

ゴミ箱 その2
入り口のそばのゴミ箱。
先ほどの物とはデザインが異なりますが、やはり色はブラック×レッド。

大きなロゴマーク
入り口を一歩入ると、ヤマネコの足を模した大きなロゴマークが。
円形の絨毯で、やはりこれも色はブラック×レッド。

ダンスホール
ここがダンスホールのようです。
確かに、ダンススクールやバレエスクールなどで、よく見る造りの部屋です。

ようやく
その奥に…ようやくバスケットに関係するものが現れました。
ここは、チームの練習の模様を一望できる場所で、たたみ3畳分くらいのガラス窓からコートを見下ろせるようになっています。

トイレチェック
コートへ向かうため引き返しますが…妙な恒例となってきているトイレチェックへ行ってみましょう。

チームカラー3色
やはり期待を裏切りません。
トイレ内の壁は、レッド × ホワイト × ブラックの代わりにグレーの、チームカラーで彩られています(画像中ほど)。
チームカラーの3色なれど、トイレだけに刺激的な色合いでなく、落ち着いたトーンの3色が使われている心配りが感じられます。
ブラックの代わりにグレーが用いられていますが、実のところ、グッズでもこの特徴がしばしば見られます。

ハンドソープ
そして類にたがわず、ハンドソープの入れ物にはロゴがプリントされています。

とある選手
通路に戻って歩いていくと、壁にとある選手が紹介されています。
名前は、マイク・マローイ。

Mike Maloy
パネルの左側では、大学以降のマローイ選手について語られています。
ここから、パネルの各箇所の説明を意訳にてご紹介。
訳は、「 」 内に記載します。

マイク・マローイ
「マイク・マローイ。
敬虔な信徒、信じられないほどの賢さ、素敵。
これらは、ごく限られた言葉であるが、チームメイトやコーチが彼を語る時に使う。
マイク・マローイ-1970年(卒業)生は、デビッドソン初のアフリカ系アメリカ人、大学代表チーム奨学生、この大学史上、偉大なバスケットボール選手の一人である。

ニューヨーク市からやって来た、高校バスケットボールスター選手のマローイについては、こんな風に数字で表現することも可能だ。
6フィート7インチ、200パウンド。
彼は最初の2シーズンを、レフティ・ドリーセル監督の下でプレーし、3シーズン目をテリー・ホーランド(1964卒業生)監督の下でプレーした。
彼は遺憾なく才能を発揮し、いずれもノースカロライナ大に敗れたものの、ファイナル4まであと1勝というところまでチームを押し上げ、その名声を全国区にまでにし、これが評価されて計3回のオールアメリカンを受賞した。

1970年の卒業まであと数ヶ月という時点で、彼は大学を去り、NBAのボストン・セルティクスにドラフトされたがプレーはせず、代わりにABAでプレーした。
のちにヨーロッパに渡って、プロ選手としてまた監督としても活動をし、1980年にオーストリア市民権を得た。
デビッドソン地域初の黒人学生のひとりとして、国民的な大学バスケットボールスター選手として、彼は開拓者だった。
キャンパスでは多くの友人をつくり、当時の町のアフリカ系アメリカ人にも大勢友人がいた。
のちに彼は、自分の人生を振り返ってこう述べた。
『デビッドソンにいたあの頃が、自分の人生の中で最もいい時間だった。本当にあそこが好きだった』

2009年、マローイはウィーンにて死去した。
彼はそこで、アメリカン・インターナショナルスクールの教師、バスケットボールの監督として働き、バンドを組んでブルースを演奏していた。
マローイの訃報は、地元新聞 シャーロットオブザーバー紙の記事にて報じられ、テリー・ホーランド氏がこう語ったと綴られている。
『マイクは、一人の偉大なバスケットボール選手というだけでなく、私が出会った人々の中で、最も人生を謳歌した人間のひとりである』」

ドリーセル監督の言葉
ここでは、画像下側の3行にわたる、ドリーセル監督の言葉を意訳でご紹介。

「彼は、コートのどこでもシュートをブロックしてしまうので、全く練習にならなかった。
そして、いつも彼はコートで微笑み、楽しそうに笑いながらプレーをするので、私が『マイク、もう少し真剣にプレーしろ』とハッパをかけると、彼は『監督、ぼくは真剣ですよ』と言い返したものでした。」

ドリーセル監督とマローイ選手
画像右下の、写真の説明を意訳でご紹介。

「ドリーセル監督は、ニューヨークでマローイ選手をデビッドソン大へスカウトし、2年間、ヘッドコーチとしてマローイ選手を監督した。」

プレーキャリア
「マローイは、大学歴代・通算得点3位でキャリアを終え、通算リバウンドは首位。
3年間のキャリア平均で1試合、19.3 得点、12.9 リバウンドを記録した。」

2連続のエリート8
「70年卒業生のダグ・クック(#24)、同じくジェリー・クロール(#42)とマローイは、1967年、共に大学代表チームでし始め、3年連続でワイルドキャッツをNCAAトーナメント出場に導き、その中には2年連続のエリート8だったシーズンも含まれている(1968年と1969年)。」

UCLAへの挑戦
「デビッドソン大のスポーツ選手で、唯一、スポーツイラストレイテッド誌(1968年12月2日号)の表紙を飾ったマローイ選手。トーナメントで、デビッドソン大が優勝争いに加わる要となる。」

写真の右奥がマローイ選手。
他の2選手は、左がケンタッキー大のキャシー選手、手前がノースカロライナ大のチャーリー・スコット選手。
オレンジの表紙中、写真の上側には、
「カレッジバスケットボール・スポーツイラストレイテッド。UCLAへの挑戦 ※」
とありますので、当時のスポーツイラストレイテッド誌のようです。

※60年代の10年間でUCLAは5回優勝し、さらに1967年から1973年まで7連覇。

マローイ選手の最終キャリアスタッツ・受賞歴
ここで、マローイ選手の個人スタッツ、当時のチームの最終成績をご紹介。
後述の永久欠番の選手達に、ひけをとらない成績です。

全米ランキング
 1試合平均得点:19位(24.6点 1968-69)
 リバウンド  :20位(14.3本 1968-69)

オールアメリカン
 1968年 コンバース・イヤーブック(2nd)
 1969年 consensus オールアメリカン(2nd)、USBWA(1st)
 1970年 ザ・スポーティングニュース(2nd)、コンバース・イヤーブック(2nd)
       AP(3rd)、UPI(3rd)NABC(3rd)、バスケットボールニュース(3rd)

サザンカンファレンスアワード (以下、カンファレンス名は省略)
 オールサザンカンファレンスチーム 1st:1968年、1969年、1970年
 プレイヤー・オブ・ジ イヤー:1969年、1970年
 プレイヤー・オブ・ジ ウィーク:1969年、1970年
 オールトーナメント 1st:1968年、1969年、1970年
 トーナメントMVP:1968年
.
大学歴代ランク
 得点
  キャリア通算:9位(1661点)
  シーズン通算:4位(739点:1968-69)
  シーズン平均:8位(24.6点:1968-69)

 フィールドゴール
  キャリア通算試投数:7位(1247本)
  シーズン成功数:8位(270本:1968-69)
  シーズン試投数:4位(554本:1968-69)

 フリースロー
  キャリア通通算成功数:5位(431本)
  キャリア通通算試投数:1位(620本)
  シーズン成功数:2位(199本:1968-69)
  シーズン試投数:1位(273本:1968-69)

 リバウンド
  キャリア通算:1位(1111本)
  キャリア平均:2位(12.9本)
  シーズン通算:1位(429本:1968-69)、5位(343本:1969-70)、6位(339本:1967-68)

チーム成績
 1968年: エリート8(24勝 5敗 うちカンファレンス内 9勝 1敗)
 1969年: エリート8(27勝 3敗 うちカンファレンス内 9勝 0敗)
 1970年: 1回戦負け(22勝 5敗 うちカンファレンス内 10勝 0敗)

南部州の黒人ヒーロー
華々しいキャリアのマローイ選手でしたが、そんな選手にも、社会の壁が立ちはだかります。
画像の右上(白地に黒文字)のエリアには、当時の新聞の生記事が掲載され、その下のエリア(黒地に白文字)は、記事内容を見やすいように大学が書き出したものです。

2つの見出しは、
 「マローイは人として認識されていない」
 「南部州の黒人ヒーロー」

南部州の黒人ヒーロー
「いつものように、マローイと彼のチームメイトは、サザンカンファレンストーナメントを勝ち進んでいた。
そして、デビッドソン大がレギュラーシーズン中、何度もプレーしたシャーロット・コロシアムでの慈愛に満ちたプレイオフゲームショーでは、マローイはその主人公だった。

マローイのもとへ、最初に駆け寄ってくるのは子供たちだった。
特に彼らは、大人が予期せぬ方法で選手へと近づき、更衣室そばのせまい通路に押し寄せ、チケットの半券や紙切れにサインをねだった。
群がる子供たちを引き連れたまま、マローイが観客席の背後から姿を見せると、そこへ第2波が押し寄せる。マローイは根気よくサインに応じ、色々な物にサインをした。
中には、彼の毛むくじゃらな頭髪、笑顔に由来すると思われるシワや大きな顔を誇張した、似顔絵にもサインした。この後で、コートサイドから離れた人の居ないシート、多分この巨大な施設で唯一のプライバシーのある場所で、マローイは南部州の黒人ヒーローになるということがどのような意味を持つのかを話してくれた。


『ぼくが不満なのは、ここでは非常に良く扱われ過ぎることなんだ』と彼は言う。
『見ただろう。みんな、ぼくと握手をしたがり、サインをほしがり、ぼくが素晴らしいという。なぜなら、ぼくがバスケットボールを上手くできるから。
でも、彼らはぼくを一人の人間として受け入れているわけではない。
彼らの意味するところは、“ マイク、きみは受け入れられているが、所詮、ニガー(黒人の差別的な呼称)なんだ ”と。
それは僕が最もなりたくないものだ。』

マローイは続ける。

『だから黒人仲間たちが、自身のアイデンティティを確立できるようにと、ぼくを駆り立てる。
人生のほとんどを過ごしてきた黒人社会だが、そこがぼくの居たい場所なんだ。
何人かの人は、彼らとつるむなと、ぼくに話しかけてきたことがある。しかし、はっきりと言ってやった。
“ ふざけるな ”と。』


バスケットのコート上ではマローイにとってアイデンティティの問題は無かった。
6フィート7の選手で、彼ほどの素早さとリバウンドに長けた選手はそうはいない。

トーナメント1回戦で、バージニア陸軍士官学校と対戦した時のこと。
マローイは思いもかけず、速攻のチャンスであることに気がついた。
あたりを見回し、他のチームメイトへ自分に追いつくように呼びかけが、それに応じた者はいなかった。そこで彼は、そのままドリブルをし高く舞い上がり、ディフェンダーの上を飛び越えて、優雅にシュートを決めて見せた。

別の機会では、マローイは簡単にレイアップシュートができるほど、オープンになっていた。
しかし、彼はシュートをせず、すでに追い越していたディフェンスよりも、さらに後ろにいるダグ・クックへパスをした。
ダグは簡単にシュートを決めたが、マローイにとって屈辱でしかなった。
たとえて言うなら、速攻の時に、自分の方がディフェンスよりも一歩先んじているのにレイアップシュートをミスという、ありえない状況と同じくらい屈辱的だった。
次第にマローイは、バスケットゴール下でのあのアグレッシブさを、コート外での彼の活動にも醸しだす様になってきていた。


『ぼくは、その時点でかなり好戦的になっていたと思う』と彼は述べた。
『ぼくは、ルーサー・キング牧師のように穏やかではいられない。若者にとって、待つことなんてできない。もう自分を駆り立てるものは、プロバスケに挑むこと、経済的に恵まれない若者達と共に働くことだ』と、すでに3年生で、心理学を先攻していたが、マローイはそう決心していた。
一方、大学は彼がもっと学業に精力的に取り組むことを願ったのだが。


ニューヨーク市の地元出身で、そこで高校生だったマローイは、マルコムエックスの自叙伝を読んだことで、黒人民権運動に興味を持った。
彼は、デビッドソンを選んだ理由をこう述べた。

『自分が、ここで成功すれば、それが他の人の助けになるだろう』
彼は続ける。
『私はここでは、相対的には幸せだ。そして、ここでもっと多くの黒人が学校へ行けるようになってほしいと思っているし、ぼく自身も、自身のアイデンティティを保ちつつ、百合のように真っ白な空気の社会にも適応ができるようになりたい』」


大変長くなりましたが、記事を尊重して、内容をお伝えするだけの話題のみに留めず、ほぼ原文と同じ文章量で訳しました。
マローイ選手が、ライバル校以外の物とも戦っていたことが察せられます。

友愛会の決定
「マローイは、デビッドソン大の社会友愛会への入会を許可されたが、この友愛会の国際組織は、人種を理由にマローイを不適合者にしようとした。
その結果、デビッドソン大の友愛会は、この措置への賛成・反対に二分され、ある者たちは、大学に残って決定を覆そうとした。
一方で、マローイを含む他の者たちは覆そうとせず、その場を離れて別の選択をした。」

これがいつ起こった出来事なのかについては記載されていませんが、冒頭にもありました通り、マローイ選手が卒業まであとわずかなのに大学を去った時点と被るようなら、この事を重く受け止める必要があるのでは、と感じました。

ジョン・ベルクアリーナ
壁のアーチに銘打たれた通り、ここがジョン・ベルクアリーナの入り口です。
名前は、この大学を1943年に卒業した、ジョン・ベルク氏に由来しています。
ガイドなどで調べたところ、選手としての華々しい記録はないものの、「チームでリーダーシップを発揮」とされ、シャーロット市の市長、一族が拓いたベルクという会社の経営者を歴任し、そして長年、デビッドソン大を経済的に支えてきたようです。 後述の永久欠番に選ばれた選手と並んで、バスケットボールの Athletics Hall of Fame に認定されています。

アーチやガラス戸に仕切られた向こう側がコートです。
男子・女子のバスケットボールのほか、バレーボール、レスリングの公式試合で使われているとのことです。

実は、ここは最初のロビーのすぐそばで、アーチ手前には1階へ降りる階段があり、その手すりが画像の下側に写っています(1階はのちほど)。

コートの名は…
入るとこんな感じです。
このコートにも名前がついており、マクキロップ・コート。
現男子バスケットボールHCの、ロバート・マクキロップ氏(Robert McKillop または Bob McKillop)に由来し、HCのこの大学でのキャリア25周年を記念して、2014年2月1日に名づけられました。
画像の通り、シートは、やはりチームカラーの赤。

ここでちょっと疑問が。
座席の数からもおわかりの通り、正直、今まで見てきたNCAAのアリーナの中で、もっともこんじんまりとした…と言いますか、小さなアリーナです。
1989年に建設され、5295人の観客を収容できるようになっているとのこと。
日本のインターハイ開催にも、かなり微妙な大きさに見え、とても5000人も入るようには見えませんが…。

横から見ると…
コートを横からみるとこんな感じです。
観客席の背後にカーテンが見えますが、カーテンの奥には更にもう1つ別の練習用コートが設置されており、逆側(撮影している側)にも同じようにカーテンとコートがあります。
画像のこの公式コートをあわせると、計3つあることになります。
ちょっと観に行きましょう。

両サイドのコート・右側
こんな感じです。
こちらは、先ほどの公式コートから見て右側のコートですが、左側にも同じ大きさのものがあります。

そして、右側の赤い壁…のように見える物は、イス…に見えます。
5000人収容のこたえはこれのようです。
試合の際はこれらを引き出して、さきほどの公式コートを囲むように配置し、試合を大勢で観られるようにする仕掛けのようです。逆側にも同じ物が見えますので、収容人数が5000人というのも納得です。

本日は少年バスケで
さきほどの入り口付近に戻ってきました。
本日は、少年バスケで使われるようです。
邪魔にならないように、周囲を散策します。

奥の壁には
奥の壁には、スコアボード、星条旗、横長のデビッドソン大バナーのほか、各大学を記したタテ長のバナーもあります。
右から、
 ブラック×ホワイトのデビッドソン大
 ホワイト×レッドのデイトン大
 ブラック×イエローのVCU
 ブルー×ホワイトのセントルイス大です。

逆側には
逆側(入り口側)には、
 レッド×ホワイトのマサチューセッツ大
 ブルー×イエローのラサール大
など、アトランティック10カンファレンスに所属する他大学のバナーが飾られています。

かつてはサザンカンファレンスに所属していたデビッドソン大学ですが、2016年現在でアトランティック10カンファレンスに所属し、2年目を終えたところです。

ビリケンさん
1つだけ着目したい大学が。
日本人に馴染みのあるマスコットを採用しているセントルイス大学。チーム名はビリケンズ。
マスコットは、大阪の通天閣ではお馴染みの、「ビリケンさん」の愛称で通っているビリケンという幸運の神様です。
イラストの顔も、通天閣のあの像によく似ています。

アトランティック10カンファレンス
NCAAでは、カンファレンスごとのロゴが設定されており、

アトランティック10カンファレンスは、  というロゴです。

ここで、2016年現在のアトランティック10カンファレンスに所属するチームをご紹介。

 コービー・ブライアント選手の父親、ジョー・ブライアント氏出身のラサール大
 ドクターJことジュリアス・アービング選手出身のマサチューセッツ大
 渡邊 雄太 選手が所属するジョージワシントン大
 ラマ・オドム選手出身のロードアイランド大
 ビリケンさんがマスコットのセントルイス大
そしてカリー選手のデビッドソン大と、何気に日本のファンには馴染みのあるカンファレンスです。


デビッドソン大
ワイルドキャッツ

デイトン大
フライヤーズ

デュケイン大
デュークス

フォーダム大
ラムズ

ラサール大
エクスプローラーズ

マサチューセッツ大
ミニットメン

ジョージメイソン大
パトリオッツ

ジョージワシントン大
コローニアルズ

リッチモンド大
スパイダーズ

ロードアイランド大
ラムズ

セントジョセフス大
ホークス

セントルイス大
ビリケンズ

セントボナベンチャー大
ボニーズ

ヴァージニア
コモンウェルス大
ラムズ

サザンカンファレンス優勝
天井からはチームカラーのバナーが多数つるされています。
いずれも、そのシーズンの年、サザンカンファレンス優勝と書かれています。
右端から数えていくと、2007、2006…とカンファレンスでのシーズン優勝とも、同トーナメント優勝の年とも合致しません。
後日、最新のシーズンガイドで照合してみたところ、両方をあわせると、バナーの数・年とほぼ合います。

公式記録によると、シーズン1位で終えたのは…
1964年・1965年・1966年・1968年・1969年・1970年・1971年・1972年・1973年・1981年・1996年・1997年・1998年・2002年・2003年・2004年・2005年・2007年・2008年・2009年・2012年・2013年・2014年・2015年(※2015年はアトランティック10カンファレンス所属)
の、計24回です。

バナーで確認すると、いくつか存在しない年があり、バナーの並びが、まばらな事からも、きちんとしてお披露目されるシーズン中に訪れなかったのが原因かも知れません。
さらに、カンファレンス2位でシーズンを終えて、同トーナメントを優勝した2006年が加えられていますので、カンファレンス・シーズン1位と、同トーナメント優勝のバナーが混在しているようです。

NCAAトーナメント
天井からつるされているのは、この他にも。
NCAAトーナメント出場したバナーです。
2016年現在で、出場回数 13 回に対し8勝-14敗。
1966年・1968年・1969年・1970年・1986年・1998年・2002年・2006年・2007年・2008年・2012年・2013年・2015年
出場しています。

  
永久欠番
永久欠番となった選手のジャージバナーも吊るされています。
2016年現在で選ばれているのは5名。全員、この大学の Athletics Hall of Fame でもあります。

 #10 ディック・スナイダー (1964-1966年 6-5 ガード)
 #11 デレック・ラッカー  (1985-1988年 6-1 ガード)
 #21 ホビー・コブ     (1953-1956年 6-3 フォワード)
 #33 ジョン・ガーディー  (1976-1979年 6-5 ガード)
 #44 フレッド・ヘッツェル (1963-1965年 6-8 センター)

ステフィン・カリー選手はというと…アリーナスタッフの話によれば、この大学で永久欠番になるには、卒業していること、も条件になるそうです。
カリー選手はアーリーエントリーし、その後、修学して卒業していないため、まだその機会に恵まれていないとのこと。
確かに、先のマローイ選手もあれだけ活躍していたのに、卒業せずにプロ入りしたためか、永久欠番に選ばれていません。

ここで、いただいたメディアガイドから上の5選手をご紹介。

#10 ディック・スナイダー
初のサザンカファレンス優勝(1966年)と、NCAAトーナメント初出場の立役者。
通算得点1693点は、大学歴代8位。また、ガードの選手ながら、通算648本のリバウンド(歴代15位)を獲り、1965-66シーズンのフィールドゴール試投数 504は歴代9位、成功数 284は歴代5位、1シーズン総得点753点は歴代3位。
のちに彼は、2巡目のNBAドラフトにより、13年間でセントルイス・ホークス(現アトランタ・ホークス)、キャバリアーズ、サンズ、スーパーソニックス(現サンダーの前身)でプレーしました。

#11 デレック・ラッカー
キャリア通算250本のスティールは大学歴代1位、1952得点は4位、436本のアシストは5位、392本のフリースロー成功数は10位にランキング。
1985-86シーズンのフリースロー確率 88.8%は、当時の全米10位。
また、
 CoSIDA アカデミック・オールアメリカンを1回
 ジョン M. ベルク MVPを3回
 オールサザンカンファレンスを2回
受賞しました。
1988年には、FAとしてキャバリアーズに入団し、以後、オーストラリアのプロリーグでプレーしました。

#21 ホビー・コブ
通算得点1424点は、大学歴代16位にランキング。
この大学で初めて、1000得点、シーズン平均20点した選手で、この記録は50年間破られることがありませんでした。
キャリア通算リバウンドにおいても歴代4位(836本)にランキングされ、フリースロー試投数 616 は歴代2位、成功数434は歴代4位にランキングされています。

#33 ジョン・ガーディー
通算2483得点は、大学の歴代2位。
在学4年間のうち、1年目は逃してしまったものの、1試合あたりの得点力は全米ランクで、2年目は17位、3年目は8位、4年目は6位。一方で、2057本のシュート数(試投数)は大学歴代1位、2位のカリー選手(1866)を離しての記録を持った選手でもあります。
1995年には、この大学の Athletics Hall of Fame に選ばれました。
また、1979年にはサザンカンファレンスの Athletics of the Year と Helms Foundation All-America チームにも選ばれ、その後、NBAドラフトで3巡目指名を受けました。

#44 フレッド・ヘッツェル
チームを初めて全米レベルの大会まで導き、先述のマローイ選手と同様、1000得点(以上)・1000リバウンドを達成した選手です。
キャリア通算2032得点は大学歴代3位、通算フリースロー成功数 450本は大学歴代2位、通算リバウンド数 1094本は大学歴代2位でした。
また、サザンカンファレンス・プレイヤー・オブ ジ イヤーには毎年選ばれ(1963年、1964年、1965年)、全米では、シーズン平均得点が1年目は15位、2年目は12位、3年目は8位という好成績でした。
NBAドラフトでは1965年の1位に指名され、ウォリアーズに入団します。
1996年に、サザンカンファエンスが75周年を迎えたことを受け、75周年チームに選ばれました。

#31 ウーマック
以上が男子バスケットボール選手の永久欠番で、入り口から見て右手の天井をご紹介しました。
そして、左手の天井に1つだけ、同じような永久欠番ジャージが飾られています。

#31 Womack

こちらは女性のバスケットボール選手、サラ・ウーマック氏の永久欠番です。
デビッドソン大の女性アスリートの中で、永久欠番に選ばれたのは、唯一、ウーマック氏だけとのことです。

次は1階へ
カリー選手もプレーしたマクキロップ・コート。
男子バスケットボールチームは、1907-08シーズンに産声をあげ、現HC、ロバート・マクキロップ監督を18代目のコーチに迎えて27シーズン。
2016年までの108シーズンの通算成績は、
 1397勝1182敗
 NCААトナーメント出場13回(8勝14敗)
 NIT出場7回(3勝7敗)

小さなアリーナではありますが、数多くの色々な歴史が詰まっていました。2階はここで終了です。
次は1階へ行ってみましょう。